弱さを引き受ける
前回は対話と共感について考えました。その中で、他者と自分の価値の対等性が大切だと述べました。今回は、価値の対等性を考える観点から、「弱さを引き受ける」ことについて考えてみます。
「人は物語を生きている」と言われます。そのことは、人生の意味と深く関わります。
それとは逆に「生きることに意味はない」という人もいます。そして、そのまま意味がないと考える人と、「だから、人生の意味は自分で見つけるものだ」という人がいます。
人生に意味があることを、科学的に証明したひとはこれまで一人もいません。それは幸せを科学的に証明するようなものです。
最近は脳科学の研究が進み、幸福感を感じているときの脳内で何が起きているのかわかるようになってきました。健やかさを感じているとき、人とのつながりを感じているとき、スポーツ大会で優勝するなど達成感を感じているとき、場合に応じて違った脳内物質が生成されます。ですから、その物質を投与することで疑似的に幸福感を感じることができます。
しかし、これは物質の投与によって幸福になるというという意味になるのでしょうか。
この問いについては、全否定や全肯定はなかなか難しいです。
食べ物を喩えとして考えてみます。スーパーで調味料の棚をながめると沢山の種類の調味料があります。サラダドレッシング、焼き肉のたれ、めんつゆに加えて「○○鍋用だし」「〇〇丼の素」等々、特定の料理専用の調味料があります。ラベルの成分表示を見ると、化学調味料が使われているのが一般的です。食物に含まれる「うまみ成分」を抽出したり、化学的に再現したものが使われています。これらの物質は口に入れた瞬間に「うまい」と感じます。食べ物を咀嚼する必要がありません。
「うまい」ことが幸福であれば、工業的に作り出された味と昔ながらの家庭の味に違いがないかもしれません。しかし、食べるという行為そのものに幸福があるとするとどうでしょうか。単純に食べる行為だけを考えても、しっかりと咀嚼することで味わえるうまみと即席のうまみでは感じ方が違うと思います。また、食材を調理して料理する過程にもある種の幸福感があります。料理はめんどくさいことかもしれません。しかし、忙しさの中で、時間のかかる幸福感よりも手軽さを優先してしまいがちな気持が、その「めんどくさい」という理由になっていて、料理をすることの幸福感そのものを否定するものではないと思います。
こうした身近なことの考察からも、幸せを科学的に証明することの難しさが分かるかと思います。幸福をどのように感じるかは主観的なもので、個人ひとりひとりの価値観によって変わります。個人の主観を支えているのが個々の人生の物語で、人生観のようなものです。それが人生の意味でもあります。
科学の進展により、食べ物でいえば化学調味料のような代替物によって幸福感を感じるこができるようになりました。忙しさが増す中で、その他のいろいろなこともまた食べ物と同じような状況にあります。
戦後、アメリカ文化が日本に大量に流入してきました。映画をはじめとした娯楽産業を通して、物品の購買意欲が刺激され、その他国際的な社会情勢の影響とあいまって、日本は高度経済成長しました。テレビが普及しインターネットが登場し、誰もがスマホで千差万別で大量の情報に触れられる社会になりました。
情報消費社会になり、物語が見えなくなっていますが、その事すら自覚できない暮らし方をしています。
忙しいのが普通というこの暮らし方を選択しているのは私たち自身です。「忙しいのが普通の暮らし」はどこから生まれた物語でしょうか。
私たち日本社会では、戦後、そして民主主義と資本主義の2つの価値を軸に社会活動を展開してきました。この価値を支えているのは科学です。あるいは科学的な態度です。その一方で、宗教と政治について、学校や社会であまり意識しないような社会を作ってきました。こちらは信じる世界です。どちらかというと科学的ではない世界観です。
私たちは科学的であることは正しいことだと信じています。しかし、この「信じている」ということを忘れてしまっています。「弱肉強食」や「進化論」を自然の真理として信じています。そして、私たちの生き方もそうあることが真理だと信じています。
科学が悪いことだとは思いませんが、私は、科学が万能であるとも思いません。さきほど、食べ物に喩えて考察したように、幸福そのものを科学では測れません。
科学の始まりから考えると、キリスト教の真理を証明しようとする懸命な努力によって科学は発展したことが伺えます。ですから、もともと下敷きになっている理論は聖書や福音書の物語です。神と男性を同一視するような家父長制社会がその基盤となっています。そして、「科学は正しい」という信条を背景に、男性の理想像を映画やテレビドラマ、アニメで繰り返しヒーローとして表現されてきました。
さて、私たちは現実の社会としてどこへ向かおうとしているのでしょうか。
24時間戦える企業戦士の時代でしょうか?
私たちは何故か「完全なものにあこがれる」ことになっています。
ちょっと考えるとそれは真実であり、もうちょっと考えるとそれは真実ではないことに気がつきます。「あこがれる」ことは、「遠く彼方にあることを思う」ことです。完全なものは遠くにあり、本人は不完全なものとしてここにいるということが、日本人にとって言葉としては自明となります。
ところが、不完全さを受入れられない自分がいます。そのことに私が気付いたのはつい最近のことです。ですから、あこがれている自分が不完全だという意識はあまり自明ではないのかもしれません。
私がそのことに気づいたのは、どのようにしたらネガティブな感情を軽減したり消したりできるのだろうかと考えてみたときのことでした。自分の心のネガティブな感情をなんとかしたいなぁと思った最初のきっかけは、数年前に田坂広志さんの著書「運気を磨く」です。副題に「心を浄化する3つの技法」とあり、文中で「『人生でのネガティブな体験』を陽転していく技法」などが紹介されていています。その要点の箇所を毎日のように何度も読み、週末には田坂さんの公演をユーチューブで流しながら部屋の掃除をしていました。しかし、合点がうまくいかず、ネガティブな感情はあまり軽減されませんでした。
その後しばらく経ってから、NVC(非暴力コミュニケーション)の本を改めて読み返した。また、2015年にイギリスで偶然教えていただいたホ・オポノポノの手法など思い出しました。(ホ・オポノポノはハワイに伝わる問題解決の手法をもとにして開発された一種の瞑想法です。)それ以外にもいくつか似たような違うタイプの手法について本を読み、自分の心と向き合ってみました。
田坂さんやホ・オポノポノなどでは、ネガティブな感情を消すことに力点が置かれます。それに対してNVCでは、ネガティブな感情の発生源を探ることにも焦点が当てられます。例えば、「怒り」という感情が、他人などの外部の出来事との遭遇がきっかけで生まれたとします。そのときに、自分の外部で起きた現象と感情をつないでいるのは事物に対する本人の解釈だと理解します。つまり意識の在り方によってコントロールすることが可能であり、また、「怒り」のもととなっている感情に意識を向けることができるようになります。
私は、夜寝る時に、いやな体験の記憶や苦手な人物の顔などを思い浮かべては、自分の心の反応を観察して、苦手意識や怒りやその他ネガティブな感情の在り処を探りました。その結果、私自身とても驚いたのですが、それは自分の未熟さや弱さを隠そうという気持ちが根っこにあるように感じました。
その事に気づくと、田坂さんやホ・オポノポノなどの手法で、ネガティブな感情は薄らいでいきました。
私が未熟であることは変わりないのですが、その未熟さを認識し引き受けることができた後では、人への意識や態度が少しずつ変わってきているように感じます。また、人に対する共感の感情は、弱さを持っているからこそ、それを感じ取れるのではないかと思うようになりました。
人が作った物語は面白いものが多いですが、私の場合は、それと自分を一致させることにどこかで無理があるように感じます。自分らしく生きるとは、ありふれた言葉ではありますが、大切にしたいことだと思います。
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