対話から共感が生まれる

前回は対話について考えました。一回目の「自由を生きる」から少しおさらいをしてみます。

「自由を生きる」ことは、幸福を追求する一つの方法です。「自由」を尊ぶ西洋社会の価値に裏付けられています。現代社会はこれまでの社会と質が変化してきています。石油資源を使って、それまで経験したことのない豊かな時代を私たちは生きています。この時代に応じた自由の在り方を多くの人が享受できると私は願い、信じています。

自由を生きているとき、私たちはかけがいのない体験をしています。その一瞬に永遠を感じるような感覚です。時間の物理的な長さとは直接関係ありません。私たちが十全に生きている実感が大切です。

時代が豊かになったとはいえ、人はひとりでは生きていけません。豊かな現代社会は、多くの人が関係することで成り立っています。ある人の自由が他の人の自由と調和することが望まれます。

人と人が調和して暮らすには、何か価値の対立や利害の対立が生じたとき、調整が必要になります。そのための手法が対話です。対話は、その場面において、お互いの価値が対等であるということを受け入れて、最適解を作りだす態度です。

さて、今回はその対話について、共感との関係から考えてみます。

 あなたは、他の人を見るとき、自分と同じと感じますか?それとも、自分は人とは違うと感じますか?

 以前、この問いに対して、私は同じと感じると述べました。「共感」はこの「同じと感じる」ということに似ています。

 対話のところで、日本社会ではこれまで、対話的な態度を育む必然性がなかったと述べました。ですから、「共感」の意味に対話的態度があまり含まれていません。

 共感は英語で「シンパシー」や「エンパシー」、「コンパッション」などの単語になります。「コンパッション」は「感情とともにある」というような原意になります。「シンパシー」と「エンパシー」については少し詳しくみてみます。

 「シンパシー(sympathy)」と「エンパシー(empathy)」の違いについて英英辞典で調べてみると、シンパシーは「他人の状況を自分と同じこと」と捉え、エンパシーは「自分にはない状況を心の中に作り出して理解すること」ということが分かります。シンパシーは「同情」の意に近く、親近感を覚えます。それにくらべ、エンパシーはどこかよそよそしさが漂います。

ですから、日本人が共感というときには、主に「シンパシー」という意味でした。判官びいきというのも、この類です。

そして、これを支えている意識は、「みんな一緒」という感覚です。「出る杭は打たれる」という言葉によく表されています。調和を乱す要素を排除するのは、日本だけではなくどんな社会でも起きることです。日本は島国で外国から侵略されることが少なく、また、縄文時代に定住して以降、1万年ちかくの間、農業を中心とした集落を作って暮らしてきました。そのため、そうした傾向が根強くなりました。

では、日本の社会にあまりなじみのない「エンパシー」はどういう感じなのでしょうか。

これを理解するヒントは、前回紹介したNVCの手法にあるように思います。共感コミュニケーションと言われるように、共感を引き出すコミュニケーションです。この手法を簡単に言えば、自分の感情は、それがどんな様態のものであれ、自分の内面から生じるものと考えます。そして、自分がその感情に気づき、それを言葉で表現し、必要に応じで相手になんらかの行動変化や協力を要求します。そのようにして、問題を解決する方法です。

当たり前と言ってしまえばそれまでのことです。

私たちが普段取っている行動は、実は、感情の発生原因を他者にあるとみなすことが多いです。怒りなどの場合は特にその傾向が強くなります。喜びであれ怒りであれ、他者の言動はあるきっかけにすぎません。他者との関係で生じた事象と自分の感情を切り分けて捉えることが大切です。それができるようになると、対話をしやすくなり、共感を生じる可能性が出てきます。

自分や相手の感情を客観的にとらえ、寄り添うような意識が共感です。この寄り添う態度に注目した言葉が「コンパッション」です。こうした共感が生まれると、今度は対話が深まります。共感と対話の相乗効果が、人間関係を深いものにします。

日本人がこれまで「みんな同じ」と思ってきたこととは別の意味で「みんな同じ」という意識を持つことが大切です。どんな人でも得手不得手があります。得意なこととそうではないことがあります。完璧と呼べるような人はほとんどいないと言ってよいでしょう。一人ひとりの違いを認めながら、それぞれが自分の意思を表現し、自然環境と調和する暮らしを私たちは求めているのではないでしょうか。

次回は、弱さを引き受けることについて考えてみます。

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