「リアル」じゃない「リアリティ」
【「リアル」と「リアリティ」】
「リアルじゃないリアリティ」と聞くと、少し頭が混乱しますが、アートでは以外にも普通のことなのです。
そう言われても混乱は深まることはあっても、納得!、とはならないと思います。それでは、いったいどういうことでしょうか。
私達は「リアル」という言葉にあまり抵抗を感じることなく日常的に使っています。もちろん日本語ではありません。
インターネット上の辞書アルク(https://eow.alc.co.jp/)で調べてみると「real(リアル)」は形容詞で「実在する、現実の、本物の」で、「reality(リアリティ)」は名詞で「現実、現実らしさ」が主な意味になります。
「リアル」も「リアリティ」もほぼ同じ意味ですが、アートを巡って考える時、この2つの単語は形容詞と名詞の違い以上の違いを感じます。
「リアル」と「リアリティ」に隣接する言葉に「リアリズム」があります。これは「現実主義、現実を観念的・理想的・空想的にとらえるのではなく、そのままもしくは実務的に理解しようとすること。」アートに関しては「写実主義」とアルクで説明されています。
日常生活で使う「リアル」は、「現実」という意味に加えて「本物」というニュアンスを含んで使っているように感じます。そして「本物」であることは「真実」であることを連想します。ですから、「リアリズム」には、「真実を求める態度」が含意されていると考えられます。「リアリズム」という態度によって「リアル」が表現されます。
アートでは理想(の美)が追求されます。そして、より理想に近くなるほどに「リアル(本物の美)」になると考えます。ここで1つの矛盾が生じたことに気づきます。「リアリズム」は「写実的であること」です。「理想的に捉える態度」は「リアリズム」ではありません。しかし、ある意味で想像の世界の美のイメージを実際に目で見たり、手で触ったりできるようにするという意味において「現実主義(リアリズム)的」ではあります。
画家は人物など実際に存在する対象物をモデルとして参照して絵を描くことがよくあります。画家は現実のモデルをそのまま描くだけでは理想の美に近づけないと考えます。というのも、150年ほど前にいわゆるカメラの技術が開発され、容姿をそのまま写し取るだけなら写真を撮れば良いということになったからです。そして、一部の画家たちは「描くことの意味」を考え始めました。このあたりから、「リアル」と「リアリティ」の違いも生じ始めました。
実際の絵画表現(芸術表現)では、「デフォルメ」が行われます。「デフォルメ」はフランス語で「フォルム(形状)を変える」という意味で、「強調表現」と解されます。例えば、女性の容姿を描くときに、胸や腰の膨らみを強調することです。それによって、より「理想の美(女性らしさや、その対象から感じられる魅力)」が「リアル」に感じられると画家は考えます。
この「リアルに感じられる」ということが「リアリティ」です。目の前にいる女性の現実の姿が、言葉の本来的は意味で「リアル」なのですが、画家が求める「リアル」は理想の美であって、描く前には「リアル(現実の存在)」ではないのです。それを目の前に見えるように表現された作品から感じ取られるのが「リアリティ」です。
そしてこの「リアリティ」が現実から遊離して、非現実的な内容を表現すると「シュールリアリズム」になります。
美術に関心の高い方ならご存知かと思いますが、フランス語「surréalisme」の英語読みで、「sur(~の上)」と「réalisme(リアリズム)」からできた造語で、「リアリズムの上」「リアリズムを超える」というようなニュアンスです。サルバドール・ダリが有名です。「シュールリアリズム」において画家が求める「リアリティ」は、その源泉は空想の中にあり、それをあたかも「リアル」に存在するかのように見せることが画家の狙いです。ここではより一層、絵画における「リアル」と「リアリティ」の違いがよく分かります。
「シュールリアリズム」によく似た言葉に「スーパーリアリズム」があります。こちらはあまり有名ではありませんが、写真を下にしてエアブラシなどを使って写真そっくりの大きな絵を描きます。オフセット印刷と同じように4色(シアン、マゼンダ、イエロー、ブラック)に色分解した写真原稿を用意して、まるで手動印刷とでも言えるような、機械的な方法で描く画家もいます。
スーパーリアリズムについては、抽象表現の「リアリティ」に類するものとして考えると分かりやすいかもしれません。
抽象絵画(抽象芸術)はかなりの種類がありますが、究極の抽象作品の代表作家にイブ・クラインがいます。キャンバスやオブジェを青一色で塗った作品を数多く残しています。ここでは「リアル」と「リアリティ」が極限まで近接して、最終的に矛盾はなくなります。目の前にある作品は「青い物体」で、それが寸分違わぬ「青い物体」そのものになるからです。目の前に作品という名の物体があり、鑑賞者はその物体の前で1つの空間を共有し存在している。それ以外に事実はないのです。「スーパーリアリズム」で上田薫が描く生卵は、画面上で1メートルくらいの大きさに描かれます。顕微鏡とは違い、その大きさにしたからといって黄身や白身、タマゴの殻の分子構造が見えるようにはなりません。「巨大なタマゴの絵」が物体として存在します。伝達される意味内容は、同じように大きな絵画、例えばルーブル美術館所蔵の「ナポレオンの戴冠式・・・(大きさ6.21 m × 9.79 m)」のような古典的な絵画とは全然違います。日常生活でありふれた生卵という画題は、周知の出来事なので、画題の意味は希薄になります。ですから、ここでは矛盾を引き起こす「理想の美」がなくなることで、古典的な絵画における「リアル」と「リアリティ」の矛盾もなくなります。
そして、先程は極限までに接近すると述べましたが、ここで私達は「リアリティ」だけが残り、「リアル」がなくなっていることに気づきます。「青い物体」には「リアル」を測る基準がないのです。これが新しい美の創造です。(現代美術の価値は多様で、それぞれの価値は直線的に整列するものでもなけば、一元的基準で判断できるものではないので、この「美の創造」はいくつかある「美の創造」の1つのあり方です。)
ところで、先程、写真は現実をそのまま写すと述べましたが、写真においては「リアル」と「リアリティ」の矛盾はないのでしょうか。
その答えは「イエス」であり「ノー」でもあります。(※ここではPCによる写真の加工についてはまたの機会に譲り、述べません。)
写真を技術的に見れば、被写体からレンズに向かってくる光をそのまま定着するのですから、「リアル」と「リアリティ」の矛盾はありません。理想の美がそこに表現されているのであれば、被写体もまた理想の美を具現しているはずです。
ところが、少し引いて考えてみると、矛盾があることに気づくと思います。写真撮影で、「引く」といば、画面に収まる範囲を広げることになります。被写体に近づいたり、あるいは離れたりしながら、これはというカメラアングルを決めます。そして、撮影者が決めた範囲が写真として写し取られます。
例えばポートレイト(肖像)写真を思い浮かべて見てください。何も注文をつけなければ、胸から上の部分(バストショット)が通常のポートレイトになります。パスポートの写真の場合は、指定の写真寸法に対して顔の収まる範囲(顔の大きさ)が指定されています。たいていは、ほぼ首から上の範囲の写真になります。コロナウイルス感染症の広がりで、様々な会議などがインターネット経由のリモート会議で行われました。カメラに映る範囲が胸から上だけなので、下は何を履いていても気づかれません。いつもなら、スーツ(上下の揃いの背広)を着ている人が油断して、下は、実はパジャマのままだったところ、カメラ機材の使い方になれていなくて、うっかり上が背広で下がパジャマである姿が映ってしまったという失敗談が放送されていました。
このようにカメラが撮影する「リアリティ」(バストショットの映像)は、「リアル」(上が背広で下がパジャマ)とはズレがあるということが分かります。
撮影者はそのことを意識するとしないとに関わらず、どこかにフレーム(枠)を設定して対象を切り取ることになるのです。そのフレームの設定によって「リアリティ」が作り出されます。
このように、アートを巡って考えると、「リアル」は必ずしも「リアリティ」と一致しないのです。あるいは、「リアル」と「リアリティ」のせめぎあいの度合いよって、表現のあり方が変わるのです。
【中世美術の魅力】
多少語弊があるかもしれませんが、ここまでの話を別の喩えで説明してみます。
東京などの大都市では、芸能人に偶然出くわすことがあります。TV番組や映画の撮影などでは、芸能人が芸能人のままそこにいるのであまり違和感はないと思いますが、レストランやデパート、あるいは映画館や劇場で、芸能人がプライベートの時間を過ごしているときに出会ったところを想像してみてください。当たり前ですが、テレビであなたに向かって話しかけるように、その芸能人があなたに話しかけることはまずありません。その人らしさ、あるいはあなたがテレビを通して感じている親しみがある意味で「リアリティ」です。そして目の前にいる生(ナマ)の芸能人の姿が「リアル」です。
「リアリティ」というのは、心の中にある「理想像」のようなものです。それに対して「リアル」は、実際の姿と言って良いかもしれません。
この「リアル」と「リアリティ」の違いがよく分かる作品を、イタリア・ルネサンスの巨匠ミケランジェロ・ブオナロッティ(Michelangelo Buonarroti)が残しています。
ピエタ像にその違いが現れています。(「ピエタ」はキリスト教の絵画や彫刻の主な主題の1つで、聖母子像のうち死んだキリストとそれを悲しむ聖母マリアの姿をあらわしたものです。)ミケランジェロの作品では特に2つの作品が有名です。バチカンにある『サン・ピエトロのピエタ』と、ローマのロンダニーニ邸の中庭に置かれていたといわれる『ロンダニーニのピエタ』です。
ミケランジェロは、石切場で切り出された石の中に、既にその像の姿を見ることができると言ったと言われます。『サン・ピエトロのピエタ』の表現においては、技工の巧みさを感じます。全て大理石で出来ていますが、具体的な表現に人の肌や衣服の布などの質感を感じ取ることができます。目の前に、キリストを抱いた聖母マリアがいるかのようにその作品を見ることができます。
『ロンダニーニのピエタ』はどうでしょうか。
こちらは、顔の表情や髪の毛もまだ制作途中といった感じです。ミケランジェロの最晩年の作品で、このとき既に視力が衰えて、目がよく見えなかったと伝えられています。それでも、手探りで制作を進めました。『ロンダニーニのピエタ』にはルネサンスの華やかさを感じます。そうした雰囲気はここにはまったく見られません。時代がルネサンス期からゴシック期へと逆戻りしたかのような印象さえ受けます。実際に未完成に終わった作品ですが、魅力を感じます。
どちらのピエタ像も傑作ですが、形が判然としない『ロンダニーニのピエタ』の方が、私には、祈る思いのようなものが強く感じられます。「リアル」という点からは、『サン・ピエトロのピエタ』の方が確かに「リアル」です。
もう一つ別の例を見てみたいと思います。
今度は同じようにイタリアのルネサンス期を代表する芸術家レオナルド・ダ・ビンチ(左)と、時代的に前になるゴシック期のチマブーエの作品(右)です。
画題はそれぞれ違いますが、レオナルド・ダ・ビンチの作品の方が、写実的で分かりやすいです。チマブーエの作品では、聖母子像とその周辺に配置して描かれている天使の大きさや配置の仕方が不自然です。色の表現もやや平板な印象を受けます。
ゴシックの単純化されたフォルムには独特の魅力があります。それはミケランジェロの『ロンダニーニのピエタ』の魅力に通じるものです。表現物としての力強さと言って良いかもしれません。
普段あまり気にする人はいませんが、地下鉄の壁の広告や屋外の立て看板を想像してみてください。昔の映画館の看板は看板屋さんが手で描いていましたが、今では印刷機で印刷されたものが貼られています。映画館の看板は近づけないかもしれませんが、駅の広告なら近づいて見ることができます。写真表現の場合、意外に雑に見えるのではないでしょうか。目が荒いというか、ひょっとするとドットが見えるような印象を受けるかもしれません。
ちょうど印象派の画家の絵、例えばスーラのようにドットで描かれているような感じです。
雑誌でもなんでも良いのですが、印刷物をルーペで拡大して見ると、写真などが、水色やピンク、黄色、黒といったインクのドットで印刷されていることが分かります。看板の印刷と雑誌の印刷で、このドットで描くという原理は同じです。違うのは、手元で見る雑誌はとても細かいドットであるのに対して、看板などでは雑誌にくらべて大きなドットで描かれています。これは、意図的に使い分けされています。大きい画面を雑誌のように細かいドットで描くと、「より鮮明で美しくなる」と思いますが、実際にはそういう印象を受けません。なぜかといえば、実際に目で見ている風景と差がなくなると、風景に溶け込んで、看板の印象は弱くなってしまいます。「リアル」に近づくと、印象が薄れて「リアリティ」がなくなってしまうのです。印象派の絵画は、ある意味で「色のリアリティ」を探求した結果とも言えます。色の感覚を強く印象づけるにはドットで描く方が効果的です。そうした色の強さを意識して、広告看板は少し粗い感じに印刷されているのです。
やや話が飛躍しますが、色や形を単純化した方が造形的には強い印象を与えることができるのです。どちらが良いとか悪いということではありません。また、ルネサンスの美術の魅力が色褪せるわけではありません。
ともすると、写実から離れる表現は子どもの絵のようで、それ故に稚拙で未熟なものとして考えがちです。確かに技巧として拙いということは言えます。
ところで、心の中の印象が具体的な形状を持つとは限りません。もやもやした感じが、形として表しきれると考える方が実感からは遠いような気がします。ときにピントが外れてボヤケた映像になってしまった写真の方が、その場の雰囲気を良く捉えていることがあるように、目の前に起きている現象から受ける印象が心に記憶される過程で曖昧な形状に変換されているように感じることがあります。
例えば、朝、太陽が姿を現す瞬間にそれを感じます。太陽が見える寸前は既に辺りは明るくなっています。風景全体が薄明かりの中で、その表情を感じ取ることができます。そして、太陽が現れた瞬間、東側の風景は太陽の光によって強いコントラストを帯び、逆光の中、それまで感じられた具体的な表情を感知することができなくなります。皆既月食のときの逆です。月食では完全に地球の影に入った月が赤い色味を帯びて表面の表情を感じ撮ることが出来ますが、その直前までは影の部分は暗くて表情を感知できません。朝、太陽が見えた瞬間、眩しさを感じると同時に、その前の瞬間が心の中で重なります。その心象は、少しボヤケた写真の方が、より心象に近いものとして感じられます。
心が感じる「リアリティ」という視点から、美術品を眺めると、現実の形状から少しはなれた表現の方が心に馴染むような気がします。ギリシャ彫刻では、ミロのビーナス像など、その頂点となるヘレニスム期よりも、それ以前のクラシク期やアルカイク期のもの、ルネサンス期よりも少し前のゴシック期のもの。日本美術では、奈良や鎌倉のものよりも、飛鳥や平安のものがそれに当たります。アルカイク・スマイルに代表されるように、様式としてはやや硬いかもしれませんが、「リアル」ではない表情に奥深い雰囲気の広がりを感じます。
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