対話によって人と共に生きる

 ヴァシランドする生き方について、前回は「人とともに生きる」ことについて考えました。それを実現するために、今回は「対話」という手法の可能性について考えてみます。

 私が対話に関心をもつきっかけはいくつかあります。1つは平田オリザさんの書籍、2つ目はNVC、3つ目は友人の考え方の影響です。この3つが主なものです。

1つ目。私が学生だったころ、友人たちと演劇集団(学外の人を含むサークルみないな団体)の公演を東京の駒場にあるアゴラ劇場で行いました。この劇場を経営し、また、ここを拠点にする青年団という劇団を主宰しているのが平田さんです。直接面識はありませんが、その名前だけはその頃から頭の片隅にありました。その平田さんのコラム記事を、10年程前から、ときどき新聞で目にするようになりました。平田さんの新聞記事がどんなだったかは忘れてしまいました。今、想像してみると、たぶんコミュニケーションの視点から社会問題について述べられていたのだと思います。

私の母の友人の子が20歳前後から引きこもっているという話を聞いていたので、引きこもりがない社会が良いなぁと、心のどこかでいつも思っています。私としては、引きこもりは、コミュニケーションの不足や齟齬などが原因の1つではないかと思っています。

 それで、平田さんの本を何冊か読んで、対話の重要性を感じるようになりました。

彼の意見では、「日本には対話がない」のです。歴史的な考察から、対話という態度が日本社会では発達しなかったのです。そした社会環境の変化、特にグローバル化と呼ばれる現象によって、日本人が日本人以外の人とコミュニケーションする必然性が生じた現代社会では、対話という態度を育む必要があるのです。

2つ目は、NVCです。NVCはノン・バイオレント・コミュニケーションの頭文字です。NVCが商標となっているため、日本では共感コミュニケーションという言葉で表されます。平たく言えば対話の方法の1つです。

私は学生の頃から環境問題が気になり続けていて、2004年にアース・デー・トーキョーというイベントを見物に行きました。それをきっかけに環境活動に関心をもつようになりました。偶然ですが、そのイベントを主宰するビー・グッド・カフェという団体がその年に愛知県で夏から翌年春にかけたワークショップを開催し、それに参加しました。2005年に愛知県で環境をテーマにして万国博覧会「愛・地球博」の準備を兼ねたプレイベントです。この団体は万博期間中にオーガニックカフェを運営する予定で、その場所にパーマカルチャーガーデンを作るという企画でした。

パーマカルチャーは、パーマネントとアグリカルチャーをくっつけてできた造語です。1970年代にオーストラリアで、大学教授のビル・モリソンと助手のデビット・ホルムグレンによって考えられた自然環境と共生するライフスタイルです。最近はアーバンパーマカルチャーという考え方も広まってきて、アグリカルチャーだけではなくカルチャー全般を含む考え方に変わってきました。

昨年(2020)になってビル・モリソンの動画で知ったのですが、パーマカルチャーは、環境破壊を進めることになる現代社会の仕組みに対する怒りを感じ、彼が研究を始めたのだそうです。

私は2005年以降に環境活動についていくつかの団体の活動に関わりました。2015年に当時関わっていたNPOの事務局を辞職して、その後の方向を考えていた時に、今度は、トランジション・タウンという活動を知りました。これは、パーマカルチャーの考えを街づくりに生かして、持続可能な社会を作る実験的な活動です。そして、トランジション・タウン活動発祥の地、イギリスの南西部の田舎町トトネスを訪れました。

2005年の頃にはパーマカルチャー・センター・ジャパンという日本の団体があり、2015年の頃には、トランジション・ジャパンという法人が設立されていました。どちらもパーマカルチャーという考え方を基礎しているので、人の交流があります。

2016年には再びトトネスを訪れ、その後、浜松市でトランジション・タウン活動をしている団体と交流するようになりました。そこで知ったのがNVCです。

それは、2017年に浜松で行われたパーマカルチャーに関するイベントに参加した時でした。その時に、あるワークショップに参加しました。初めての経験だったので、その時はよく理解できていなかったのですが、おそらく、ビジョニングの練習だったと思います。ビジョニングというは、ビジョン(展望)を作ることです。近い将来を想像して、それを具体的に肉付けしてはっきりとしたイメージを作っていく作業です。

実際に行った作業は、自分が将来にやってみたいことや実現したいことについて、気になっていることや場所、人などを具体的な言葉でまず表します。そこに、NVCの手法によって、他の参加者とともにイメージを作っていきました。

NVCというは、カウンセリングやセラピーというものの類なのかなぁという印象を持ちました。いわゆるカウンセリングやセラピーというのは、それまで敬遠して試したことはありませんでしたので、実態はよく分からないという感じです。

その後になって、あらためて対話について関心をもち、振り返ってみると、これが私のはじめての対話体験だったように思います。

NVCの手法は、特徴として複数のカードを使います。「悲しい」「わくわくする」など感覚や感情を表現する言葉のカード、「愛情」「自己表現」など欲求や要望を表現する言葉のカードの2種類があります。1人の課題について、これらのカードを使って他の人が問いかけることで、本人がいままで気づかなかった欲求などに気づくことがあります。そうした発見や気づきを手掛かりに未来の展望を描き出していく手法です。

3つ目は、2つ目と少し重なります。パーマカルチャーやトランジション・タウンの活動は、1960年代から始まった若者文化の流れを汲みます。一言で言えば「自由を求める」ということです。第二次世界大戦後、冷戦が続きましたが、西側諸国では経済的な繁栄を謳歌しました。その一方で、アメリカ国内のベトナム戦争反対運動や公民権運動、フェミニズム運動に見られるように、より平等で自由な社会実現への関心が高まりました。同時に、環境破壊への問題意識の高まりから1970年にアースデーのイベントが世界ではじめて、アメリカで開催されました。この場合の「自由」は、いろいろな捉えられ方が可能ですが、「自然環境と調和した平和な社会の実現」という願望を「自由」という言葉に表していると私は思います。

経緯はさておき、私の知人で1990年代にトトネス周辺で生活していた人がいます。彼は、シューマッハカレッジに1年間在籍して環境と調和する経済の在り方について研究しました。私が彼に出会ったのは7年前くらいですが、2018年の秋にはじめてお互いの価値観についていろいろと話す機会がありました。彼は、環境と調和する社会に必要なのは、自然界のような自己調整機能だと考えています。一人一人が全体との調和を意識しながら、役割分担することで、持続可能な組織を作れるという考え方です。そして、調和を図るための具体的な手法として「対話」に着目していました。

少々長くなりましたが、結局私の3つのきっかけは、2つの関心事に集約されます。1つは、コミュニケーションの手法としての対話、もう1つは、持続可能な社会の実現に向けた取り組みです。

では「対話」とは何でしょうか。

対話についての考察を深め、演劇やその他の多様な活動を通して実験的な実践の取り組みをされている平田さんの考察が参考になります。

結論としては、「対話とは会話における態度の在り方」です。「対話」と「会話」を別の話法として分けている平田さんの定義とはやや異なりますが、私なりに分かりやすく一言でまとめてみました。

「態度」についてもう少し、深く考えてみます。

まず対話は、価値観の違いを調整する際に用いられます。そして、対話的な態度とは、例えば2名で話す場合、相手の意見を自分の意見と対等の価値がある内容として聞くということ。最終的には「どちらが正しいか」ではなく、「双方にとって最適な解は何か」を導き出します。交渉術そのものではありませんが、類似するところがあります。

 前回、ヴァシランドする生き方には自己肯定感が大切と述べました。対話的な態度を尊重した自己肯定感は、「私が絶対に正しい」というものではありません。論理は、どのような論理であれ、その論者にとって常にその人の論理として正しいです。それがなければ論理という概念にあてはまりません。対話は勝ち負けを競う態度ではありません。対話における自己肯定とは、「私は正しい」のと同等に「相手も正しい」という肯定の仕方になります。

平田さんは「態度」が重要であるとしている背景に、歴史的に、日本と欧米では、社会の成り立ち方の違いがあるとしています。日本語の変化、ときには日本語の乱れが指摘されます。「ワイハ」などにみられる語順の転倒、これは江戸時代からある言葉あそびです。「終活」のような言葉の短縮形。「チョベリバ」などの若者言葉。「dx デジタルトランスフォーメーション」などのIT技術用語。顔文字、絵文字。SNS特有の短縮した言い回し。などなど、変化の要素はいろいろあります。平田さんはこうした変化は変化として認める一方で、今、実生活に必要な変化は「対話の態度」だと強調します。先に上げたような変化は、態度の変更を伴いません。これまでの態度を継続する工夫だといえる場合もあります。

これまでの態度とは、「KY」や「同調」といわれる態度です。少ない言葉で人々が協力、協調できるということは良いことです。一方で昨今問題視されているのは、それがいじめの原理のように負のはたらきもしていることです。

対話では、どういう言葉を選ぶかの前に、どういう態度で臨むかということが大切です。一言でいえば、その場に参加する人、ひとりひとりの価値観を尊重するという態度です。歴史的経緯から、欧米ではさまざまな国や地域から移住してくる人々を受け入れてきました。その結果、文化的な背景が違う人たちで社会が構成されています。そのため、それぞれの価値観を尊重することが、平和な日常生活を送るには欠かせません。ですから、初等教育の段階から対話的な態度を育成するような、教育手法が採用されています。

ヴァシランドは「どこか行くかよりも、どんな経験をするかということを重視した旅をする」を意味します。そうした生き方をしながら、調和を得るには対話的な態度が欠かせません。

日本では、これまで必然性がなかったため、対話的な態度が十分に意識されてきませんでした。今、私たちが手にしている豊かな時代を、十全に生きるには、対話が必要だと思います。

そう、私は、自然環境と調和しつつ、豊かな時代を十全に生きたいと願っているのです。

次回は、「共感」について考えます。

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