気づき
「気づき」とは何でしょうか?
デカルトの「我思う故に我あり」は大きな「気づき」です。お釈迦様の「如」もまた大きな「気づき」です。
この大きな気づきの他に日常的な「気づき」があります。「気づく」をネットで検索すると「その方面に意識が向いて、突然物事の存在や状態を知る。気がつく。」と出てきます(明鏡国語辞典)。
誰もが経験することでは、間違いに気づくということがあります。もっとも分かりやすい例は、数学のテスト問題で計算ミスをしたときです。テスト中は分からなかったけれど、テストが終わってふとした時に「あっ、間違っていた」と思った経験は誰にもあります。その他、日常生活では、靴下の穴や、セーターの毛糸のほつれ、服の袖についた醤油のシミ。あれっ?いつの間にと思うことは多々あります。無くしたと思っていたものが、机の引き出しなどから偶然出てきたときに「こんなところにあった」と気づきます。
この「気づき」は、本来あるべき姿、あるいは想定している状態とは違うことが起きたときに使います。
少し話を難しくします。
私は大学生のときに美術を学びました。専攻は彫刻です。美術表現では描画力が必要で、入試では実技としてデッサン(素描)の試験があります。作品を作るにあたっては、画用紙などに絵を描いて、イメージを作っていきます。大学を卒業して10年ほど経って、あるとき、偶然美術大学のデザイン専攻の講師をしている方と食事をする機会がありました。美術やデザインとは関係ない人たちとも一緒でしたが、雑談する中で、彼は「デッサンは本人に見えている以上の物は描けない」というようなことを言われました。なかなか奥の深い言葉と思い、今でもその言葉だけは覚えています。
美術の歴史は絵画を中心に語られることが多いです。19世紀の半ばに写真の技術が発明されて、画家、特に肖像画家は仕事が激減します。説明は無用とも思いますが、写真のほうがそっくりそのまま写せるので、絵にする必要がなくなります。
写真は光の作用を利用して機械的に記録します。ですから、レンズの前にあるものが全て投影されます。それに対して絵画は画家の目を通して、絵画として作られます。ですから画家の目が捉えたものが表現されます。
写真と絵画の違いについて、この説明では、まだ違いがよくわかりません。
人の人体を想像してください。動物でもいいのですが、人の目に映るのは皮膚や目、毛など表面に露出しているものです。服を着ていれば、人体と言っても服を見ていることになります。その服の下に肉体があり、肉体は骨や筋肉などによって構成されているということを画家の目が捉えます。そして、服の下にあるものを感じさせるように描きます。
描く技術と言ってしまえばそれまでですが、手先の技術の前に、それを見抜く目が必要です。そして、その画家の目はときとして、人物像であれば、その人の雰囲気、人となりも感じとり絵画にしていきます。
写真家にとって、物質的な観察はカメラという機械がやってくれます。ですが、人となりを見抜く画家の目は機械では代用できません。ですから、写真表現では名画の構図や雰囲気を参考にしつつ、表現の質を高めています。
画家の目の「気づき」は、見えないものを知識や論理、体験をもとにして「見抜く」「見なす」というようなことです。
また、コペルニクスの地動説やニュートンの万有引力のような発見も「気づき」の一種です。
ここに例示した3種類の「気づき」を仮に「日常の気づき」「画家の気づき」「科学者の気づき」と呼ぶとして、この順番により深い「気づき」になっています。
この「気づき」を深めていくと、冒頭のデカルトやお釈迦様のような「大きな気づき」に至るのでしょうか?
「イエス」「ノー」をはっきりとは言いづらいですが、私は、どちらかと言えば「ノー」だと考えます。「気づき」の質が異なっているのです。
例示の3種の「気づき」は、対象の観察から得られる「気づき」です。手で触ったり、見たり、聞いたりするなど五感を通して体験的に確認できる「気づき」です。
では、「大きな気づき」とはなんでしょうか。
「大きな気づき」とは、対象を観察している「自分という存在に気づく」ということです。ある状況に喩えてみます。
私の目の前に、ある人(Bさん)がいます。「Bさんはカフェで椅子に座ってテーブルの上に置かれたお皿の上のケーキをフォークで食べています。」さらには、「Bさんの服の袖にケーキのクリームがついてしまっていること」に私は気づきます。
このように私はBさんを対象として観察することができます。私がBさんを観察するようにBさんがBさん自身を観察するような意識を持つことが「大きな気づき」です。
目の前にコップがあるから、コップに私は気づきます。その時に、私がいなければ私はコップに気づくことができません。あるいは、コップから離れて自分が目を閉じていれば、コップを感じ取ることはできません。ですから感じている私がいることで、コップがそこにあるということに気づくことができます。この「感じている私」を意識するような意識の在り方が「我思う故に我あり」ということです。実際には様々な感情や心の観察を含むような、もう少し複雑な思考ですが、このように私は概観しています。
お釈迦様の「大きな気づき」もデカルトの「大きな気づき」に似ています。少し違うのは、「私は全体の一部であり、同時に全体そのもの」という感覚で「わたしはあなたで、あなたはわたし」というような意識の在り方です。それに加えて「全ては変化する」という意識を持つことです。
鈴木大拙さんは「刹那主義は、絶対の現在が何を意味するのかを知らない。禅は、この絶対の現在に生き、ゆえに“タタター”(如)を覚知する。」と「金剛経」を引いて述べています。また、瀬戸内寂聴さんは、般若心経を解説する中で、お釈迦様の教えを「切に生きる」と表されています。
鈴木さんなどの書籍を通して、お釈迦様の「大きな気づき」を、私は、「全ては今・ここにある」という考え方として、「今・ここ・私」に気づくことと理解しています。
この「今・ここ・私」という気づきが、「切に生きる」ことにつながったときに、「感謝の気づき」になります。「感謝」とは「人の親切」に気づくことです。その気づきが「共感の気づき」に意識を導きます。
「マインドフルネス」とは、単に「気づき」という語が当てられますが、本来は日常からすこし距離のある「大きな気づき」のことです。そして、日常を「大きな気づき」と共に暮らす人が熟達者なのです。それは「今・ここ」を「切に生きる」という意識です。
【参考図書】
・「禅(ワイド版)」(引用もとp180)
鈴木大拙著 工藤澄子訳 筑摩書房 2017/2/25
・「寂聴仏教塾」
瀬戸内寂聴 集英社文庫 2009/10/20
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