心を開く

「心を開く」というのはどんな感じでしょうか。

 逆に「心を閉じる」「心を閉ざす」という感覚から考えると分かりやすいかもしれません。こちらは、人と関わらないような態度です。傍若無人の場合もあれば、引きこもりの場合もあります。

 日常生活のいろいろな場面を思い浮かべると「心を開く」状態と、「心を閉ざす」状態の間に様々な状態があることに気づきます。

 例えば、コンビニエンスストアの店員の挨拶はどうでしょうか。自動ドアが開くと「いらっしゃいませ」と、こちらも自動的に感じる挨拶の言葉が店内に響きます。ないよりはましかもしれません。コンビニやファスト・フードレストラン、ファミリーレストランなどのチェーン店がどんどん数を増やしているのは、その挨拶の様にちょっとよそよそしいところが、むしろ歓迎されているのかも知れません。

 ですが、このマニュアル化して整えられた接客は心を開くことなく応対しているように感じます。コンビニでは1店舗で毎日数百人の来客に応じなければならないので、マニュアル対応にならざるを得ないのかもしれません。

 接客マニュアルがどんなものか、私はあまりよく知りません。本によると、あるハンバーガーチェーンでは、食材などの納入業者までもそのお店のお客様を自社のお客様のように思うような対応をすることがあるといいます。マニュアルの先に、サービス精神とも呼べる企業文化があるのだそうです。また、あるホテルでは、とてもいら立っているお客様であっても、落ち着きはらって心が行き届いたサービスを提供し、お客様に満足感を与えている。それもまたマニュアルではなく、こちらはホテルの経営理念の実践だと紹介されていました。

 どうも、マニュアル化が問題なのではなく、マニュアルが出来てきたもとのところが十全に表現されていないのかもしれません。原点では、心が通うような接客がイメージされているのだと思います。

 さて、サンティアゴ巡礼の旅をきっかけに、あぁこんな社会になったらいいなぁという思いが、私の心の中で、少しはっきりとしきました。「インクルーシブな社会」という言葉で社会の在り方が語られる場面が少しずつ増えてきました。「包摂的な社会」という意味です。これらの言葉から、「大らかな社会」を私は想像するのですが、実際にはLGBTのようにマイノリティに対する政策に話が狭められてしまっているように感じます。意味を狭めることなく「インクルーシブな社会」が良いと私は思います。ではどのような社会なのか。日本の社会が「インクルーシブな社会」ではないから、あえてテーマとして語られるのですから、日本にいてそれがいったいどんな社会なのかを感じるのはなかなか難しいです。結果的にですが、巡礼の旅をしてみて、その手掛かりを見つけました。

巡礼の旅では日ごとに違う人と出会い、いろいろと話をします。似たような話が多いのですが、ときどき、違った趣の話になります。「寛容さ」を考えるとき、サンティアゴまで残り100km余りの小さな村のレストランで、偶然に相席したドイツ人の男性との会話が思い出されます。私は語学が堪能ではないので、話すにもペラペラにという訳になかなかいきません。2人だけで食事していたのと、彼の寛容な性格が幸いしました。私は、メルケル首相の政策で、数百万にも昇る数の移民を受け入れたことにつて、その寛容さがどこから生まれるのかを知りたくて話をしました。性格の寛容さは「ジェントル」ですが、「包摂的な」というニュアンスを持つ寛容さについて「トレラント」という言葉を使って話をしてみました。ところが、彼は「『トレラント(tolerant)』というのは、何もしないという意味だから、(包摂的なという点で)あまり意味がないんじゃないかなぁ」というようなことを言われました。

私はドイツには行ったことはありませんが、以前、雑誌の記事でドイツは接客サービスが皆無だと書いてありました。曰く「レストランで店員が客をあごで使う」「ホームセンターは倉庫そのもの、店員を見つけるのにも一苦労する」と。ドイツ人がそうした気質だと考えると、「トレラントは何もしないこと」ということが少し理解できるような気がします。

巡礼のときの話はそれで終わりましたが、帰国後に本やユーチューブなどを通して「ジェネラス(generous気前の良さ)」が、人との関わりの在り方としての寛容さだということが分かりました。人に積極的に関わっていくような寛容さです。これに対して「トレラント(tolerant)」は、同じ寛容さでも、「規則が大らか」「目くじらを立てない」というような、人との関わり方の点では消極的な寛容さです。

巡礼では、世界各国から様々な人が集まってきます。巡礼に来た動機もひとそれぞれです。ですが、巡礼者というだけで、どこか心が通うものを感じました。巡礼を終えると巡礼者や、サンティアゴからそれぞれの帰途に就きます。私はサンティアゴからバルセロナ行きの電車に乗りました。一回の乗継を挟んで12時間の旅も終わりにさしかかり、バルセロナ駅の1つか2つ前の駅で巡礼姿の年配の女性が下車しました。少し離れた席で、車中で話したわけでもありませんでしたが、電車の通路に立って私と目があった瞬間、ニコッと笑顔になったことが印象的でした。これを「心が開いた」状態というのかもしれません。何も電車に限ったことではなく、巡礼の旅路で何度も同じような気持を感じました。「私とあなたは同じである」という感覚で、「あぁ、これがフラタリニテ(博愛)」という感情なんだと理解しました。

今、「ヴァシランド」という言葉を手掛かりに、あれこれと思いを巡らしているのは、「よりよく生きる」といことを具体的に感じ取りたいからです。より良く生きるとは、十全に生きることです。できないことができるようになるのはうれしいことですが、人それぞれに能力の差があります。十全にというのは、10の能力がある人は10の結果を得て、7の能力の人は7の結果を得られるということです。

「心を開く」とは、親密であることとは少し違います。人と人とが親密関係にあるとき、そこではお互いに心が開かれています。ですが、親密とは言えない人に対しても心を開くことは可能です。逆に親密でない人に、親密さを感じることが「心を開く」と敢えて意識するときの感覚かもしれません。

マニュアルの原点にある理念は、私が旅で感じた「フラタリニテ」に似ているように感じます。心の中に「フラタリニテ」というベースを持ち、その上に「トレラント」と「ジェネラス」を置くと良いような気がします。それが「人を自由にすることについての寛容さ」につながっていって欲しいと願います。

【参考図書】

・「はじめの一歩を踏み出そう」

 マイケル・E・ガーバー著 世界文化社 2003/6/1

・マクドナルドが大切にしてきた「マニュアルを越える」31の方法

 鈴木健一著 KADOKAWA 2013/11/22

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