自己とは何か

 「自分探し」をしたことはありますか。

 人は10歳くらいになると自我に目覚めます。反抗期と呼ばれる次期です。人に対して反抗する、あるいは何かに抵抗を感じるようになります。やがて第二性徴を迎えて、身体が大人になるにつれて異性に目覚めて、春期を迎えます。

 こうした成長と並行して「個性」という考え方を意識するようになります。学校や家で大人たちが様々な場面で個性ということを言います。高校進学や大学進学のときに、「個性」や「自分らしさ」に悩むのが普通です。この頃から「自分探し」が始まります。「自己」とはこの「自分」とほぼ同じ意味です。

 「自分探し」は少し哲学的な雰囲気で、知的な自己陶酔感を誘う言葉です。何かから逃げるのにも好都合にも思います。「自分探しなんて意味がない」という意見を時折見かけます。自分を客観的に見ることはなかなかできないので、自分のことを考えていると悩みが深くなってしまうことがあります。そうなると、かえって始末が悪いです。そもそも二十歳そこらで人格は完成するようなものではなく、人との関わりを通じて徐々にできあがるものだから、深く考える必要はない。それはそれで、なるほどそうだなぁと思います。

 私はといえば、随分長いこと「自分探し」を続けています。

最初に真剣に考えたのは30歳くらいのときでした。私は大学では美術学部で彫刻を専攻しました。長々と学生をした末、都内の企業にデザイナーの仕事に就きましたが、数年で退職しました。「自分の作品を世に問うことを1度はしてみたい」という思いと向き合うためでした。自分の作風(画風)という考え方がもう古いと感じていたのでそうとう悩みました。「個性=作風」ではないとしたら、何が「私の」芸術作品になるかさっぱり分かりません。

 その頃はポストモダンという思想が隆盛していて、手に取った本が難しい専門用語がいっぱいで分かりにくいものでした。いわゆるカルチュアル・スタディーズに分類される本で、結局、自己同一性(アイデンティティ)とは何かという文章が理解できませんでした。

 結局「さっぱり分からない」ということを作品にしました。私の感覚では「私と他の人との違いを厳格に切り分ける一線はない」という結論でした。

 その後も失業などの転機に、「自分はどうしたいのだろう」と悩み、少しずつ「私らしさ」も変わってきたように感じます。ある意味で、ぶれない人とは真逆のブレブレな人生かもしれません。何度も「自分らしさ」を問う波が押し寄せ、今もその波にさらされています。

 そうした中で1年程前に手に取った本に真木悠介さんの「自我の起源」で、頭の中がすっきりしました。真木さんはヨーロッパを中心とした生物学の過去の学者の業績をもとに考察を進めます。今でも印象に残っているのは、ミツバチの話と腸内菌の話です。

 ミツバチの話では、1つの巣の蜂はすべて同じ遺伝子をもつ、いわばクローンのようなものです。個々の個体を持ちますが、1つの巣が1つの生命体とでもいうように、それぞれの蜂が役割を分担します。また、クダクラゲの例示があり、1つのクラゲのように見えるけれど、多数の個体が集まる群体として生きているという話も出てきます。例示は人ではありませんが、個体が個や個性を表すとも限らないということです。

腸内菌の話では、人の内臓に生息する菌はおよそ1000種類のレトロウイルスがいる。これらと共生することで人は生命を維持している。また、人体の乾燥重量の10%がこうした微生物の重量と述べています。人とは異なる遺伝子を持つ微生物が、自分の身体の一部の様にして生きているのだから、人の遺伝子でさえも自分を十分には表していないことになります。(※共生とは、クマノミのイソギンチャクのように、お互いを利用しながら生息環境を維持するような生き方です。)

「私という個人」という考えは、生物的に見るとかなり特殊な見方になります。私は真木さんの考えに触れてからは、森林浴で気持ちよくなるのは腸内菌たちが喜ぶからだと思うようになりました。森林浴すると元気になったような気がしますが、腸内菌たちが健康になれば、その結果として身体が元気になり、その結果、心も健やかになるという好循環が生まれるのだと思います。

 そんなことを理解できたからと言ってなんの意味があるかと思う方も多いと思います。しかし、私としては、自分を客観視するひとつの足掛かり、あるいは立ち位置を得たよう感じました。

 「自分探し」というのは、私の理解では、日本社会が西洋化、近代化した結果として現れた考え方です。江戸時代、士農工商の身分社会では「自分探し」はあったとしても、現代とはおそらくかなり違うものです。農民の子は農民以外にはならないのですから、悩む余地がかなり狭くなります。

 「自分探し」とは、近代的自我と呼ばれる「自我」を見つめることです。デカルトの「我思う故に我あり」の「我」です。それは、神が私の主ではなく、私自身が私の主であることに気づくことです。日本人はそもそも、西洋的な意味、キリスト教的な意味での神は心にありません。ですから、近代的自我の自覚はとても難しいことです。ですが、社会生活は核家族化や個人の孤立化が進みました。その結果、近代的自我のような自意識を意識するようになりました。

 この近代的自我を相対的に見るには、自我を越える視座が必要になります。真木さんの考え方に触れたことで、近代的自我を客観視する視点を得られたように思います。そしてその視点に立つと、鈴木大拙さんが禅の本質、仏教の本質とする「如」の意識の在り方が見えてきます。自他を分けないという考え方です。近代的自我が、西洋的な価値観で便宜的に作り出した、いわば二項対立的な価値観のうち、片側に立つということです。自他を分けない、人間と自然を分けないという視点が、今必要とされています。環境問題の解決にはその視点がとても大切です。

 話が途中でズレました。「自分探し」が「近代的自我とはなにか」になってしまいました。なぜずれたのかといえば、私の中で、「自分探し」の「自分」が近代的自我という考え方の呪縛から生まれた考え方だと理解しているからです。そしてその近代的自我を問い続けることよりも、近代的自我が社会や人に及ぼす影響を相対化し低減することが、持続可能な社会の実現には必要なことと思うのです。

 今の私は、自己について「自然の一部として存在する私がいて、自分を感じる主体としての意識が自己」だと感じています。

【参考図書】

・「自我の起源」(参考p48、p73)

 真木悠介著 岩波書店 2008/11/14(初版1993/9)

 ※「真木悠介」は見田宗介さんのペンネームです。

・「禅(ワイド版)」(引用もとp180)

 鈴木大拙著 工藤澄子訳 筑摩書房 2017/2/25 (初版1965、原文(英文)1950年代)

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