正しいから愉しいへ

 私は15年間くらいNPO等いくつかの市民活動に関わって、環境問題や街づくりのこと考えてきました。この間「正しいことは良いことだ」と思って活動してきました。活動していて気持ちも良いです。しかし、そうした活動は、なかなか参加者が増えないような印象を受けました。関心のない人はそれほど多くはありません。ただ、関心があったとしても、自分の時間を割いてそうした活動に参加しようという気持ちになる人はあまりいないのだと理解するようになりました。

 環境活動は今生きている人のためというよりも、将来世代の人たちのために活動しているという側面があります。ですから、仮に活動に参加しても、いったい誰のための「正しさ」なのか実感が乏しくなります。「正しい」活動をしたという自己満足感はあります。その一方で、例えば、誰かが喜んでくれるなどの直接的な反応から受ける充足感は少ないです。

 街づくりについても似たようなことが言えます。街づくりは、「街の賑わいやコミュニティの形成が大切」というような「正しさ」を感じます。誰が街づくりを担い、誰がその恩恵を受けるのかはあいまいです。社会の共有財産のような場所や物、いわゆるコモンズを誰が守るのかという問題があります。

 NPOの活動が一区切りになったところで、私はスタッフをやめて少し距離を取るようになりました。活動が広がらない中で、活動を続けることに何か心にひっかかるものを感じていたように思います。そして、あれこれと環境関連の本を読んだり、ネットサーフィンするなかで、藤村靖之さんの本に出合いました。

藤村さんのことは、私が環境活動に関わりはじめる以前に読んだ赤池学さんの本で紹介されていましたし、藤村さんの主宰する非電化工房の活動にも以前から興味を持っていました。その本では、藤村さんが、若かったころの学生運動などを振り返り、「私たちの世代は、出発点でまじめに世の中を考えた人ほど、挫折したんですね。」そして「正しさを主題にして行動するむずかしさを、身をもって知ったからでしょうね」「だんだんと、愉しさを主題にするという哲学が芽生えてきたんです」と述べています。また、ほかにも藤村さんは本などで繰り返し「愉しさ」の大切さを説かれています。

 藤村さんの影響を受け、最近は、「愉しさ」を人との関わり方の入口として、大切にしたい価値だなぁと思うようになりました。「愉しい」という価値は、感情としてそのまま共感しやすく、活動参加のハードルも下がります。そして、人と人とのつながりも広がりやすいです。

 「正しさ」をないがしろにする必要はありませんが、「正しい」は感情ではなく理性的な判断です。「正しさ」に理解を示すことはできても、あまり共感することはありません。共感があるとすれば、「義憤」というような「怒り」の感情のような気がします。その「怒り」は「愉しさ」を奪われたことへの怒りです。時には、その怒りを声にする必要があることはあります。しかし、だからといって「怒り」を表明することのみで、「愉しさ」は戻りません。

 日本は、豊かな社会でありながら、豊かさを実感しにくい社会だと感じます。それは「正しさ」と「愉しさ」のバランスが悪いからではないかと思います。「正しく生きる」ことは大切ですが、私は「愉しく生きる」ことを重要視したい。それは、自分が生きていて嬉しい生き方です。おそらくそれが生きて生きやすい生き方につながるのだと思います。

 

【参考図書】

・「テクテクノロジ-革命」(引用p20)

  藤村 靖之/辻 信一共著 大月書店 2008/9/19

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