愉しい時間
数年前に國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」という本を読みました。その本を通して、私は「消費社会」について次のような理解をしました。
消費社会の問題点は、消費行為が必要を満たす量を越えて消費してしまうことにある。例えば有名ブランドのバッグが10年くらいは使用に耐えるとする。そうであれば、必要な買い替えは10年に1度となる。しかし、消費社会では宣伝広告などにより消費欲を掻き立ててもっと早く次の1つを購入するように誘惑する。実際に多くの人が、必要以上のバッグを買っている。衣服やスマホなどでもそうだが、次々と市場に供給される新商品を、必要を越えて買っている。そして、モノの所有や使用に満足とは別に、新しいモノを買うことに満足感を求める。(何かモノを手に入れた満足感は1日も持続しないと他の人の本にあった。)その意味で、消費社会は「新しい」「流行の」といった「情報の消費」にその本質がある。
私は長年、この「情報の消費」という態度に疑念を持ち続けてきました。私が若い頃、デザイナーをしていたからそう感じるのかもしれません。製造する側としては、毎シーズン新しい商品イメージを創り出します。そこでは、毎年、最新のモデルを消費者が求めているという前提があります。この「最新のモデルを求める消費者」は、なぜ、最新モデルを求めるのでしょうか。
私は数年で、デザインの仕事を離れました。そして自分の美術作品を制作し始め、作品発表できそうな画廊を探して銀座を歩いていたときのこと、作家として既に有名になっていた先輩にばったり会って「デザインは時代を追いかけ、芸術は時代が自分のところにめぐってくるものだよ」と言われ、その言葉がなんとなく今でも頭に残っています。この「時代を追いかける」という点にヒントがあるような気がします。製造する側と同じように、消費者もまた時代を追いかけたいのではないでしょうか。
芸術の世界では「リアリティ」という言葉で、大切な価値を表現します。辞書では「現実」とありますが、「実感」「現実感」という意味で使われます。「存在感」や「オーラ」のようなニュアンスで使う人もいます。「リアリティ」というのは、「確かに私はそのように感じた」という感覚です。その「感じている何か感覚的なものの再現」のようなものが作品です。ですから、作品制作には「感じている、今の私」を必ず体験することになります。
おそらく消費活動においてもこの「感じている、今の私」はあります。先ほどの「時代を追いかける」という衝動がそれです。しかし、美術作品の制作で起きる「感じている、今の私」という体験は、「情報の消費」とはずいぶん違う感じです。ある意味で「情報の生成・創生」をしているのですから、消費の感覚とは逆の動きです。ここに「愉しみ」の本質があるような気がします。つまり、「愉しみ」とは何かを創り出す過程で発生する「リアリティ」ではないでしょうか。
私は食べることが好きなので、食べることを通してもう少し考えてみます。
「味の素」に代表されるような料理などに旨味(うまみ)を加える化学調味料が商品化されて数十年が経ちます。コンビニの弁当やお惣菜、お菓子にも広く使われています。調理するときに、その料理に旨味調味料を適量加えるだけで美味しくなります。そして、食べ物を口に入れて直ぐに「うまい!」という刺激を感じます。ですからとても便利です。
いまでは、伝統的な調味料「さしすせそ(酒・塩・酢・醤油・みそ)」を調理に使わない人も多くなりました。便利な「○○用つゆ」の類がいろいろあって、野菜と肉を鍋にいれて、これを加えて、〇〇分加熱したら出来上がりという具合です。大変便利です。簡単で便利といえば、代表はコンビニ弁当でしょう。単身者にはとてもありがたいサービスです。こうした簡単で便利、手軽さが消費の動機の一部になっています。
手軽さの動機には、いくつか理由があると思います。1つは食べることにあまり興味がない。刺激が欲しいということもあるでしょう。
いずれにしても、生成する過程に参加することで感じる「愉しさ」が排除されます。そして、食べることへの関心は「味わう」ことに集中します。買って食べるという単純作業なので、次々と新しいものへの欲求が高まります。このようにして「情報の消費」のような購買行動に変化してきます。
なるべく簡単に、楽に暮らしたい。それを実現するために様々道具や商品が開発され、販売・流通しています。もともと「最新のモデルを求める消費者」は、そうした活動を促進するために、企業が作り出した仮定としての人の在り方で、虚像のようなものです。それに近づこうとすれば、「情報の消費」に傾いていく中で、本人の「リアリティ」が虚像化していく可能性があるのだと思います。それを「新しいリアリティ」と呼ぶこともできますが、それはおそらく「愉しい」とは離れた感覚になると思います。
何かを作る過程が「リアリティ」から抜け落ちます。抜け落ちるのは、参加するということです。作ることはめんどくさいことです。簡単の反対です。しかし、作ることに参加することに中に充足感があります。
徒然草の序段に「あやしうこそものぐるおしけれ」という表現があります。画家は夜に絵を描いているとそうした自分の世界に没入しやすいと言います。「俺は天才だ!!」と言わんばかりに、自分の絵に陶酔することがあるそうです。ですが、調子のいいときほど、朝になって見てみると大した絵になっていないと、学生時代、油絵を専攻していた友人がそう言っていました。出来上がった作品は陳腐なものだったかもしれませんが、制作しているときの陶酔は充実した時間だったのだと思います。陶酔は絵の才能とは関係ありません。才能とは関係なく充足した時間があるのです。
やや大袈裟ですが、何かを作る過程でうまれる愉しい時間というのはそういう時間なのだと思います。そしてその「愉しい時間」の中に心の充足があります。
【参考図書】
・「暇と退屈の倫理学」
國分功一郎著 太田出版 2015/6/13
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