変化を生きる
「激動の時代」「激しい変化」という言葉が、社会問題を語るときに枕詞のように使われます。この言葉はある意味で「つかみ」の役割を果たします。読者や聞き手の気を引くための言葉です。この言葉を聞くと、あなたはどのようなことが頭に浮かんで、どのような気持を感じますか。
私が想像するに、それは「不安」ではないでしょうか。不安の裏側にあるのは一種の恐れです。「変化」に不安を感じるのは誰でも同じなのだと思います。無意識に安定を求める傾向は誰にもあります。それは本能的といっても良いかもしれません。
ですから、その本能を逆手にとって上記の枕詞が使われます。
問題は、それをきっかけに始まる話の内容に、実際、私たちはどの程度それを恐れる必要があるのでしょうか。今、最も高い関心の1つはIT、AIなどに関わることだと思います。「80%の仕事がAIやロボットに置き換わる」というのが典型的なコピー、言い回しです。
それはある意味で本当です。「東大ロボプロジェクト」をご存知でしょうか。コンピュータに学習させて、東京大学入試合格を目指すというものです。実際に模擬試験で人間の受験生と比較したら、数学では上位1%に入る得点だったそうです。
そしてある意味で本当ではありません。同じく「東大ロボプロジェクト」ですが、プロジェクトを率いた新井紀子さんによると、コンピュータはもともと計算機なので、計算しかできません。足し算・引き算・割り算・掛け算を組み合わせて、高速に計算できるだけです。実際にできるのは、画像処理を含め、パターン認識という方法だけです。お手本となるデータを読み込んで、それとどの程度似ているかを判断します。ちょっとしたことでも大量のお手本が必要です。
例えば、机の上に置かれたコップをイメージしてみてください。写真の上下左右、傾きなどの写真の条件、光の色や強さ、コップの形状などの被写体の条件が変わるだけで、違うモノ・状況として判断してしまいます。ですから、そのコップに熱いおコーヒーを入れても大丈夫なのかどうかの判断をするには参考情報が大量にいるのです。
また、人は計算機ではない以上、シンギュラリティは起きないと述べています。
例示のような情報に触れると「80%の仕事がAIやロボットに置き換わる」というコピーに対する不安が少し和らぎます。しかし、心配で仕方がないという人もいるとも思います。
では、もう少し抽象的になりますが、「変化」と私たちはどのように向き合うことができるのでしょうか。
「変化を生きる」を私は2つの意味で捉えます。
1つはお釈迦様の教えの「すべては変化する」ことを真理とする態度です。
鴨長明の方丈記の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」、平家物語の冒頭は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあります。鈴木俊龍さんの本に「ブッダの基本的な考えは、ものごとは移ろうということ、変化ということです。すべては変化する。このことは、どのような存在にあっても基本的な真実です」とあります。
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの「万物流転す(パンタ・レイ)」もほぼ同様の意味に聞こえます。ウイキペディアには、彼は「誰も同じ川に二度入ることはできない(No man ever steps in the same river twice)」と言ったそうです。
どちらも変化することを真理として捉えています。
その上で「変化を生きる」とはどういうことでしょうか
お釈迦様の教えに「四苦」があります。四苦八苦の「四苦」で、「生・老・病・死」のことです。ときどき本などに解説がありますが、ある時、「苦」を「想うようにはならないこと」という解説を読み、良いなぁと私は思い、そのように思っています。
「変化を生きる」とは、人の性(さが)である「生老病死」が本人の意思でどうなるものでもないのなら、それを受入れて生きるより他なちという生き方です。「諦念」と呼ばれる態度に近いです。「諦念」をネットで検索すると「1 道理をさとる心。2 あきらめの気持ち。(※goo国語辞典)」とあります。
「あきらめる」は「あきらか」と語源が同じです。つまり「あきらかにすること」というようなニュアンスから始まっています。それが時代とともにネガティブな感情と結びついたのだと思います。ある現象や事実をネガティブな感情と結びつけるのは、そこに価値判断が入るためです。
生老病死を性として、自明のこととして受けられれば、それを気にする必要はないのですから、ネガティブになる必要もありません。
ですから「変化を生きる」とは、その日その日、その瞬間を受入れて生きることです。
さらにポジティブな意味付けもできます。変化を前向きに捉える姿勢は、お釈迦様の教えからうまれた「一期一会」ということばに表されています。この一瞬に最善を尽くすことです。
もう1つの「変化を生きる」は、マハトマ・ガンジーの「変化となれ」という考え方です。
「変化となれ」は、「Be the change you want to see in the world」、「世界に変化を求めるなら、自らがその変化となれ。」の「変化となれ」です。(※直訳は「あなたが見たい世の中の変化にあなたがなりなさい」)
引き寄せの法則と呼ばれる「思考は現実化する(ナポレオン・ヒル)」のように、キリスト教の聖書や福音書に似たようなフレーズがります。これもまた仏教の中にそうした姿勢を見ることもできます。
日本の曹洞宗(禅宗)の開祖である道元禅師の「只管打坐」です。「ただ座りなさい」ということです。
私は、これは先述した「一期一会」よりもさらにポジティブな言葉として受け止めています。
どういうことでしょうか。
「座る」とは「坐禅」のことです。「坐禅」の姿勢(両足を組んだ胡坐のようなポーズ)は、お釈迦様が悟りを開いた時の姿勢を表します。これが、苦行の数々を修めた末に辿り着いた境地はただ座ることでした。苦行から離れ、リラックスしてただ座るだけです。
そして、お寺の坐禅会で体験した方は聞いたことがあるかもしれませんが、「悟るために座るのではなく、悟った者として座る」という点が大切です。
仮に、あなたがはじめて坐禅をするとしても、坐禅の姿勢を取るということが既に悟りを意味するということです。
なぜそうなるのか。
最終的な悟りはおそらく臨終のとき、涅槃です。そのとき「人生の出来事が、走馬灯のように目に浮かぶ」という話を幾度か聞いたことがあるかと思います。それは、人生最期の悟りの様子だと思います。
鈴木さんは「悟りが大事ではない、ということではない。しかし、それは禅において重視しなければならないということではない」と述べています。
私は、悟りは段階的に幾層にもなっている体験だと感じます。一口に「悟り」といっても、人によって内容が異なるはずです。少なくとも、違って感じる様々な経験の総称だと思うのです。
百人一首に「あいみての のちのこころに・・・」という歌があります。恋の歌ですが、ある経験を境にしてものごとの見え方や感じ方が変わってしまったということです。「あなたに出会う前の私にはもう戻ることができない」のです。
これも一種の悟りなのだと思います。
こんな経験はありませんか?
数学の話です。中学生になって連立方程式を習った後になって、例えば弟や妹など小学生に算数の難しい問題を教える時に、つい連立方程式で解いてしまう。小学生の知識でどうやって解くのかよく分からない。
これは、数学の世界の視野が広がったため、小学生のころの視野だけに戻すのが難しいということです。
これもまた一種の悟りです。
数学の例では、高校生になってみると、大学生になってみるといったように学習レベルが高次になると、理解できる範囲が広がっていきます。
悟りにもそうした側面があります。そして、初心のときに持っていた、「素直に物事も見定める」という姿勢が、ともすると失われてしまいます。仏教では一番初めの心こそ、もっとも悟りに近いという考え方があります。すると、今度は「悟り」から遠ざかることになります。ですから、「悟った者は初心を心に置いて坐り、初心者は悟った者のように座ること」が大切になります。
「変化を生きる」を「変化となれ」から考えるとき、「変化となれ」とは「悟った者のように生きよ」ということです。周りの誰もやっていないことを、あたかももうそのことが普通であるかのように「変化後の世界を、今から生きる」という姿勢です。
変化を受け入れる姿勢に以上のように2つの在り方があります。意外に思ったかもしれませんが、どちらも決して受動的な生き方ではなく、場合によってはとてもチャレンジング(挑戦的)でさえあるような生き方です。
【参考図書】
・「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」(参考p22)
新井紀子著 東洋経済 2018/2/15
・「禅マインド ビギナーズマインド」(引用p206)
鈴木俊龍著 サンガ 2012/7/1
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