雨
「雨」です。たまたま今雨天なので「雨」を手掛かりに、ヴァシランド的な何かを考えます。
「雨」を見ると私は安藤忠雄さんの建築をぼんやりと思い出します。
私がまだ高校生の頃だったと思います。確か「新建築」という雑誌で、安藤さんの住宅作品を見ました。今振り返るとそれは「住吉の長屋」だったと思います。細かいことは覚えていないのですが、「雨に打たれる生活」というようなことが作品の説明に書かれていたように思います。1つの家なのに、部屋から一旦外に出て、また中に入るような設計に、「?」と首をかしげました。
それから随分経って、10年程前に岐阜県の養老町にある「養老天命反転地」という施設を訪れました。こちらは現代美術の作家の荒川修作さんの設計・監修で作られました。そこには不思議な建物や構造物がいろいろあります。床が水平ではなく、かなりの傾斜になっている住居のような建物もあります。私の理解では、荒川さんは、高齢化が進む現代社会において、身体性を意識した住空間を実現しようとしていました。意識的に体を動かさざるを得ないような空間です。日常の食事などを、普通の住宅のように、いわば無意識的に行うことができません。ぼんやりしていたらケガをしてしまうような住環境です。荒川さんは、そうした住環境で暮らせば、人はボケないと考えたのだと思います。
この荒川さんのような視点から、安藤さんの作品を振り返ってみるとどうでしょう。
その補助線として、知人の体験談を少し紹介します。
「住吉の長屋」ではありませんが、その後に名古屋で建築された安藤さんの住宅作品に住んだことがある知人に話を聞く機会がありました。その人は、建築関係の仕事をしていて、友人と一緒にその住宅を借りて、セカンドハウスのようにして何年か利用していました。「建築としては感銘を受けたけれど、人が住む場所ではない」と言っていました。コンクリートの打ち放しは、安藤さんの建築でよく見られる工法です。石の家のようなもので、外の自然条件に大きく影響を受けます。夏は酷暑、冬は厳寒となります。幼い子どもも一緒に家族4人で真冬に宿泊すると、必ず誰かが風邪を引いたそうです。
安藤さんの作品もまた、荒川さんのように、住む人の身体に直接的に働きかける家です。住宅は本来、「身体を守る」という大事な役割、機能があります。その価値に疑問を投げかけるような作品です。住宅では安心・快適が当たり前と思える現代に、何らかの警鐘を鳴らすという目的、あるいは建築思想を表現しているのでしょう。
さて、自然環境と人の関係について、さらに少し考えてみます。
「雨」はどちらかというとやっかい者です。「晴耕雨読」という言葉があるように、雨は人の行動を制約します。
10年前くらいに知り合った環境活動家が市内で活動を続けています。中山間地域の人工林を借りて、枝打ちや間伐の体験などを行っています。活動の日は、雨でも実施するというのが彼の方針で、荒天でない限り、活動を行います。ある時、私が参加したときにも雨天になったことがありました。枝打ちや間伐は大変危険なので、森の散策に変更となりました。「雨の森の様子は、雨天の時にしか見られない。いつもと違う森を見るいいチャンスだ」と彼は言っていました。当たり前といえばそうですが、「なるほどなぁ」と少し感心しました。
雨の日の屋外での経験で忘れられないのが、2019年のサンティアゴ巡礼の旅です。毎日20kmリュックを背負って歩きます。30km以上歩く人も時々見かけました。宿泊は巡礼者用の宿に泊まります。巡礼ですから、晴れでも雨でも曇りでも、朝には宿を出ることになります。一日だけ雪の日もありました。横殴りの雪にはまいりました。途中、カフェでリキュールをグイッと飲んで、その勢いでなんとか20km歩きました。雨の日は何日かありましたが、他の巡礼者といっしょに、普通のこととして歩いていました。
帰国後は、雨が降っても朝の散歩に出かけるようになりました。週末には森林公園の散策道を散歩しますが、これも、雨が降っても行くようになりました。そして、雨の中の散歩を続けるうちに雨に対する感覚が変わってきました。
それまでは、雨は人の行動を制約するものという意識が強くありました。雨が降ると外に出たくなくなります。その部分はあまり変わりません。自分が住宅や建築の中に押し込まれているような感じです。それと同時に、自然が支配する空間が広がったとも感じていました。晴れの時に人が占有していた屋外の空間が、鳥や昆虫や植物が占有する場所に置き換わるような感じです。この空間の性質に対する認識は変化しないのですが、雨の屋外を歩くうちに、自分自身が自然の側に属するような感じが強くなってきました。自然の側から人を眺めるような意識と言っても良いかもしれません。
雨の中の散歩は、快適なものではありません。しかし、多様な自然の表情の1つとして受け入れると、晴れた日の感覚も変わってきます。ある意味で自然との一体感が強まります。今までパーマカルチャーの活動をしている人などから「人は自然の一部だ」という言葉を何度か耳にしてきました。意味としては理解していましたが、正直なところピンとこないところもありました。それが、雨の森の散策などを通して、私がその感覚に近づいたように感じています。
安藤さんや荒川さんの作品は、人の身体を再認識させるものだと思います。身体の先には自然があると私は感じます。それは、直接的に自然に触れることで感じられるものだと思います。そして、自然から離れた暮らしの場面が増えた現代社会では、自然としての身体という意識や感覚を、これからはより意識的に捉えることが大切なのだと感じます。
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