信じる

 人偏に言と書いて「信」という字になります。何か具体的な証拠があるときは、信じるとは言いません。人が言ったことをそのまま真実として受け入れるときに「信じる」と言います。

 あなたは何か「信じる」という言葉から何をイメージしますか?

 「信じる」という言葉から私が連想するのは、まず宗教です。

 宗教は「信じる」ことが前提となります。何を信じるかといえばその宗教の教義です。例えば、キリスト教では、神様が宇宙を創ったという天地創造説やキリストの復活、その他キリストの奇跡がそれに含まれます。

 ところで、戦後の日本では、宗教教育をしてきませんでした。少なくとも私は学校教育で特定の宗教の教義について学ぶことはありませんでした。私の両親は宗教には関心がほとんどなく、お盆のお経、葬儀と墓参り程度のことしか行事らいしことは経験しませんでした。

 科学が万能とは思いませんが、私は、科学的に正しいとされることが真理だとなんとなく思いながら生きてきました。ですから、ときどきニュースや新聞、雑誌などで、「アメリカではダーウィンの進化論を教えない学校もある。」「天地創造説に基づいた博物館に年間数百万人の人が訪れる」といった報道に触れると、奇異な感じを受けました。いわゆる先進国のリーダー的な国となるアメリカで、相当な数人たちがそうした考えを持っていることをうまく理解できませんでした。つまり「信じる」ということが良く分かりませんでした。

 その一方で、私は大学で芸術を専攻していたので、美術の観点からは宗教に興味がありました。ヨーロッパの宗教美術の名作は色々見ました。おもに大学を卒業してからですが、ヨーロッパに旅行すると世界的に有名な美術館や教会を訪れ、本物を実際に自分の目で見てきました。それと同時に、近代から現代までの美術作品も数多く見てきました。パリのルーブル美術館とポンピドゥー美術館はそれぞれ4年に1度くらい、合計8回くらいは行きました。

 芸術の歴史を見ると、宗教美術から始まり、近代以降は宗教的な内容からは離れていきます。近代以降では、キリスト教の教義に捕らわれない作品が増えました。宗教に代わる社会道徳の規範や倫理観を示す作品、あるいはそれを批判する作品。また、自然物を賛美する作品など、表現は多様になりましたが、特に西洋美術においては、神の啓示のような役割(人への影響)を今でも美術作品が担っているように感じることもあります。もともと「美」には人知を超える魅力が潜んでいるようにも思います。信仰とは違うのですが、いわゆる「神」に対する畏敬の念、畏怖の念のようなものを美術作品や自然の「美」の中に感じることがあります。

 また、海外旅行などを通してヨーロッパ社会への好奇心から、キリスト教にも少しは興味を持つようになりました。パリに8回くらい行ったと述べましたが、それはたまたま自分の展覧会をパリの小さな画廊で何度か開催することができたからです。展覧会のときは、1~2週間パリに滞在します。画廊に行く以外は特に用事はありませんから、滞在中に必ず1度はシテ島のノートルダム寺院に行きました。キリスト教徒ではないのですが、日曜の朝に、ミサの最中に端の方の席に座って参列させていただくここともありました。ミサの様子を見ていて、今もヨーロッパでは信仰に心を寄せる人たちがたくさんいると分かり、また、宗教が今も現役というか、息づいているんだなぁと感じました。

 今も、私は無宗教ですが、サンティアゴ巡礼の旅をきっかけに信仰に対する感じ方が、明らかに変わりました。

 

 サンティアゴ巡礼の旅を終え、私はパリに向かいました。パリの国際空港を起点にして旅を計画して、ヨーロッパを離れる前に、パリに住む友人に会う予定にしていました。その友人は、自分の展覧会をきっかけに知り合って、十数年来、連絡を取っていました。パリでの展覧会は続いていませんが、パリに行くと会食したりします。今回、会食したときに、いろいろ話しているうちに信仰が話題となりました。

 

 まず私から、サンティアゴ巡礼の話をしました。それは、先ほどの進化論と天地創造説に関係します。

巡礼者は、レストランや宿の食堂で一緒に食事を取りながら談笑します。ある晩のこと、クロアチアかのカップルと一緒になりました。彼らが到着したときには、私は仲良くなっていた他の巡礼者とワインを飲んで肉や魚の料理を食べ、お喋りが盛り上がっていました。レストランには巡礼者用のメニュー(定食)があって、彼らも私たちと同じようなものを食べると思っていたところ、ベジタリアンでお酒も飲まないということで、水とスープとパンを注文しました。横で見ていた私は、ちょっと軽い衝撃を感じ、きっとこの人たちは敬虔なキリスト教徒に違いないと思いました。

 そこで、クロアチアのことは全然分からない(英語で「クロエイシア」と発音するので「クロアチア」ということさえ分かりませんでした)ので、いろいろ話を聞いてみたいなぁと思って話しかけました。クロアチアは90%以上の人がクリスチャンだというので、ダーウィンの進化論について、学校で教えているかどうか質問しました。回答は「教えることは禁止している。教えようとした教員が解雇されたとニュースになった。」と。会食していた韓国人、フランス人、ほかの日本人も、その回答にちょっとびっくりしました。・・・云々。

 私の話の後、友人は彼自身の経験をしてくれました。

彼は30年以上パリに住んでいて、フランス人の友達が沢山います。

あるとき、教会の集まり(勉強会のようなもの)に出かけてみてはどうかと友達に誘われました。彼はキリスト教ではないので、それまで参加したことはありませんでした。しかし、フランス人やフランスの文化の理解を深めるためにキリスト教について知りたいと思って、お誘いをきっかけに何度か集まりに参加しました。

彼の理解では、キリスト教徒というは、「キリストの様に生きたいと願う人たち」のことです。同じ信仰を持ち、同じ教義を信じることは、彼らが生きることの支えになっている。

そして、彼はこう付け加えました。

ダーウィンの進化論を信じることと天地創造説を信じることは、実生活の面からみればその差はないのではないか。キリストの様に生きたいと思っている人たちにとっては、むしろ天地創造説の方が大切なのではないか。と。

 そんな話が返ってくるとは想像していなかった私はショックを受けました。そのショックは、ある意味で逆のショックでした。友人の考えを否定するようなショックではなく、自分の考え方の狭さに気づかされたような感じでした。

 無意識のうちに、私のこころのどこかにクロアチアの人を小バカにするような気持ちがあったことに気づかされました。

 友人は、特定の信仰を持たないからこそ、信仰を持つことについて、非常に大切なこととして受け止めて、理解したいと思ったのだと思います。それは他人の価値観を尊重する態度といっていいかもしれません。

 この経験から、信じることに対する感じ方が変わりました。それまでよりも、信じることを切実なことのように感じます。それは「何かを信じたい」という気持ちを理解することです。私が入信するわけではありませんが、人が信仰を持つことをそれほど奇異には感じなくなりました。

 それは科学を否定することとは違います。西洋において科学的態度がキリスト教への篤い信仰心から生まれました。科学もまた「神を信じたい」そして「もっと神について知りたい」という思いから生まれました。その意味で、ダーウィンの進化論を信じるのも天地創造説を信じるのも変わりがないのかもしれません。

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