周回後の気付き

 現代という豊かな社会において、のびのびと生きる方法を探るためにヴァシランドを手掛かりに考えを進めてきました。ヴァシランドする生き方のカギとなるのは、マインドフルネスではないかと感じています。

 マインドフルネスは、先述の「気づき」の中で触れました。その時は大きな気づき、小さな気づきという視点で考えてみました。その中で、デカルトの「我思う故に我あり」やお釈迦の悟りを大きな気づきとしました。私は、マインドフルネスを理解するには、宗教的な内容理解がある程度は必要と思って、禅語の解釈に触れました。

 しかし、最近読んだアンディ・ブディコムさんの著書、英米でベストセラーの「頭を『からっぽ』にするレッスン」によると、マインドフルネス瞑想はもっと簡単なもののようです。

 アンディさんは、マインドフルネスについて、瞑想から「マインドフルネス」に名称が変えられて英米では研究が続けられ(※私としては区別がうまくつけられないので、以下、「マインドフルネス瞑想」とします)、「ルーツが仏教の瞑想にあるとはいえ、今では基本的には仏教とはかかわりのないもの」と述べています。(著書には、効能が評価している科学的な研究分析の事例を複数上げています。)

1960年代にアメリカに坐禅の実践を通して禅を広めた鈴木俊龍さんは「人によっては、禅仏教は宗教ではないというかもしれません。そうかもしれません。」と著書で述べています。そして、只管打坐(ただ坐ること)の継続的な実践の大切さを説きました。

 アンディさんも10分間瞑想を1度やっても何も変わらないかもしれないけれど、繰り返し行うことでマインドフルネスの理解が深まるとしています。

 両者の考えは、瞑想が仏教を原点にしていることは変わりなく、今日において宗教的なものかどうかという点では、宗教的なものをどうとらえるかによって違ってきます。アンディさんがマインドフルネスの重要なポイントとして指摘している「『今・ここ』に集中すること」は、言葉としては、様々な禅語が意味するところに近いです。その意味で、仏教的とは言えますが、逆にアンディさんの側からみると、それだけでは宗教的とは呼べず、鈴木俊龍さんが指摘するように、坐禅だけでは宗教ではないと理解できます。

 また、両者の考えから、マインドフルネス瞑想において、反復継続が重要ということが分かります。

 テクニックやツールとしてマインドフルネス瞑想に関心を持つと、損をしたくないという心理が働きます。近視眼的な思考になり、つい、早い結果を望んでしまいます。

 アンディさんは「瞑想には、気づいているかいないか、集中しているかいないかだけしかありません」と述べています。彼は、瞑想を身近なものとして普及させることを目的に活動しているので、かなり簡潔な言い方になっているのかもしれませんが、逆にこれがマインドフルネス瞑想の本質でもあります。その意味では、比較的短い期間で、そうした意識の在り方を習得できます。坐禅や瞑想の経験が過去にある人は、アンディさんの本に限らず、マインドフルネス瞑想のガイドブックや動画などを参考にするとその意味が実感として理解できると思います。私も実際にやってみて、なるほどなぁと感じました。そして、アンディさんの著書に出てくる修行時代の導師との対話が、より深く理解するためにとても参考になりました。

では、10分間瞑想(坐禅も)において、それを反復的に継続する意味はなんでしょうか。

 何事もそうですが、繰り返していれば理解が深まります。例えば、だれでも、金言と呼ばれることばを、1つ2つは覚えていると思います。同じ言葉であっても、年齢やそのときの境遇によって言葉の感じ方が変化します。そして、いくつかの捉え方によってその理解が深まります。

 私たちは、誰も全てを一度に気づく(悟る)ことはできません。ある技能について、たとえ数十冊の本で予習したとしても、実際にやってみると勝手が違ってきます。まったく予備知識がいらない訳ではありませんが、結局は試行錯誤(トライ・アンド・エラー)しながら理解を深めることになります。

 学生時代に飲み仲間だった歴史学の先生と飲んでいたときに「なんか変と思わへんか?何のために技術の進歩があるんや。楽するためと違うんか。わしらの生活は全然楽になってなやないか・・・」と問われました。

 彼の問は、やや大袈裟ですが倫理学的な問です。倫理学とは生き方の哲学のようなものです。「楽」というのはある意味で時間に追われない状態です、様々な産業技術が進展した結果、「楽」になるどころか、さらに時間に追われるような暮らしになっていることに対する素朴な疑問です。彼は先史学を研究していたのでそのことを強く感じていたのかもしれません。

 それからさ30年経って、手にした本に偶然、彼の研究業績の話が少し載っていました。30年という月日の経過があって、はじめて「時間」についての彼の問が少し理解できたような気がしました。「時間」というは、人(や物)の存在について考えるときにとても重要な要素だと私は思います。私が制作した美術作品では重要なテーマになっていました。作品などを通して、自分なりに「時間」を対象として観察してきたので、理解が深まりました。

 その本に出合ったとき、振り出しに戻ったような感覚を受けました。しかし、その時まで、頭のどこかで気にし続けていたから起こった気づきだったと思います。問そのものへの回答は明確には述べられません。しかし、その「周回後の気付き」は、宗教的な意識はまったくありませんが、ある意味で大きな気づきだったように思います。

 「周回後の気づき」は、それ自体を目的にできませんが、試行錯誤の結果としての気づくのだと思います。そしてマインドフルネスもまた、長い時間を経て深みをましていくのだと思います。

【参考図書】

・「頭を『からっぽ』にするレッスン」(引用p22、p125)

アンディ・ブディコム著 辰巳出版 2020/9/25(「からっぽ!10分間瞑想で忙しいココロを楽にする」2011から改題)

・「禅マインド ビギナーズマインド」(引用p259)

 鈴木俊龍著 サンガ 2012/7/12

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