平常心
電車に乗っているときや図書館で資料を探しているときに、不意に携帯電話に電話がかかってくることがあります。それが知人からの電話のとき、傍目をきにしながらも、電話に出て、最小限の相槌で対応したことは誰でも1度や2度は経験があると思います。先日、私も経験しました。普通なら、そっと電話を切って終わりとなりますが、そのときはちょっと違いました。私はトイレに移動して対応したのですが、トイレから出てきたら、「館内で電話をしないでください」と注意を受けました。その瞬間、怒りのスイッチが入り、口論になりかけました。実際はその場をすっと離れることで、トラブルにはなりませんでしたが、しばらくイライラした状態になってしまいました。
こんなとき、あなたはどうやってそのイライラを収めますか?
どうやったら、いわゆる「平常心」を保てるのでしょうか?
「平常心」は文字からすると「平和」なことが「日常」になった「心」で、とても穏やかに感じます。その一方で「日常的」という言葉に似ていて、平凡でどこか退屈でつまらなそうな印象を受けます。ネットでは「心を乱さない」「冷静」などが出てきます。手元にあるデジタル大辞泉には「揺れ動くことのない心理状態」とあります。
意味としてはわかりましたが、どうやったらそうなるのかはさっぱり分かりません。
私が「平常心」ということに興味を持ったのはつい最近のことです。私は「平常心」とは、空から自分とその周辺のことを観察する態度と考えます。俯瞰的に見るような意識です。この考えに至ったのは、NVC(非暴力コミュニケーション)を知ったことがきっかけでした。
私は4年ほど前に、知人の主宰するパーマカルチャーに関するワークソップに誘われて、NVCという、コミュニケーションの手法を知りました。簡単に言えば、家族や友人、職場などの組織において、対立をどのように克服するかという手法です。人の行動などに対してして良し悪しなどの評価判断を下すことから、対立が生まれるという考え方がその基礎にあります。そこでNVCでは、問題となった相手の行動や出来事と、自分の感情、そして自分の価値観をいったん切り離して観察します。特に自分の感情への洞察が重要です。ワークショップでは、NVCの方法を応用して、自分が漠然と思っている願望をより明確にしてみようということをしました。
その後、NVCの本を読んでみたのですが、あまりピントきませんでした。数年が経ち、最近になって、「対話」への関心から、ふとNVCのことを思い出して読み直したところ、それなりに内容を理解することができました。NVCの本はもともとアメリカで書かれていますから、例示される会話のやりとりもアメリカの社会が前提となります。数年前に読んでピントこなかったのは、英文から訳し方という以前に、生活習慣がうまく理解できなかったように思います。その後、「対話」の仕方が、歴史的、地理的要因などから日本では十分に形成されてないことを知り、「対話」の仕方を理解しようと思ってNVCの本を読み直しました。「対話」とは他人を自分の中に再現するような感覚です。そして、自分と他人との違いを意識するために、自分の内面についても洞察することになります。
「対話」の基本は1人対1人の対面で行われます。ですが、自分の内面の洞察の部分を応用して、書籍などで、著者と対話することも可能ですし、過去の人との対話も可能になります。そして、自分を内省するときにも使えるのではないかと思って、自分で試してみました。
自分を内省する必要性を感じるようになったきっかけは、NVCをまだ知る前、2015年のことです。トランジションタウンの活動に興味を持ってイギリスのトトネスを訪れたとき、私は、メディテーションのワークショップに参加しました。トランジションタウンとは街づくりの市民活動の一種で、石油資源の枯渇を念頭に、未来に向けて石油への依存を減らしていこうという取り組みです。その活動に参加しているグループが主催するワークショップなので、どうしてメディテーションなのか少し興味があって主宰者に質問してみました。すると、「これまでの私達の暮らし方を変えていこうと思えば、それを快く思わない人たちと対立することが出てきます。対立を超えようと願うなら、人を変える前に、自分の意識のあり方を変えないと、人との対立をこえることはできないのではないでしょうか。だから、メディテーションではそのことに意識しています。」と返事が返ってきました。そのワークショップでは、ハワイの伝統のホ・オポノポノという瞑想法を体験しました。イギリスに行く前から「過去と他人はかえらない。自分が変わることはできる」ということばを実践している知人がいて、なかなか真似ができないと思っていました。ですから、イギリスで体験したワークショップは、この「自分を変える」ひとつの練習方法だと思って興味を持ちました。
そして、「自分を変える」試みとしてホ・オポノポノとNVCを使って、自分自身との対話として内省してみたのです。
NVCでは、まずある出来事(例えばAさんの発言にたいして私が怒りを感じた)に対して、評価判断を下さずにその出来事に向き合おうとします。そして、互いにその出来事について感じ方いついての話をして、建設的な対話を作っていきます。そして、内省のポイントになるは、例えば怒りの感情が起きてきた場合には、その怒りの原因を出来事に向けるのではなく、自分の内面に向けます。そして、自分の経験や価値観などと照合して、怒りを感じる原因を見つけます。その上で、相手(Aさん)に対して「あなたの発言は、私の価値観を否定するものだから、○○のようにしてもらえないか」といった要望を出します。
実際に私が内省しながら感じたのは、評価判断そのものを中和することが必要だということです。そもそも評価判断とは、それを、決めているのは本人であって、本人の意識のあり方が影響します。さらにそれは、言葉の成り立ちそのものが、ある意味で対立概念によって評価の基準を作っているように感じられます。例えば光と影、天と地、男と女という具体的な事柄、上下、左右、前後などの抽象的概念、さらに優劣や巧拙などの主観が介在するような言葉など、いわば無意識的に使っている言葉の中にすでに評価判断が入っています。
そこで今度は善悪を分けないという考え方がないか思いを巡らしまし、ネット検索をする中で、タオイズムがそれに近いことを知りました。
その一方で、先に述べた、光と影や天と地などの対立、あるいは対になることばを思いつくままに書き出して、二分しないような意識の立ち位置を探しました。
結局、それは立ち位置というよりは、ある現象をそのまま受け止めるという態度だと理解ました。そしてそのような意識のあり方を仏教の「中道」と呼ぶことを知りました。(儒教の「中庸」も「中道」に似たような感じです。)
評価判断は自分の価値観に基づいて物事の良し悪しを決定します。そしてその価値観は自分の意識が、特定の出来事に対してそう判断しているに過ぎないという可能性に気づくことが「対話」においては大切です。価値判断を脇に置き、その対象をそのまま観察するような態度が「中道」なのだと思います。
「中道」とは、「うれしい」とか「悲しい」といった感情が湧いてきたときに、それを味わい、その一方でその後はそれに執着せずにやり過ごす態度です。喜ばない、悲しまないということとは違います。その感情はその時のものとして、時が過ぎるに任せて過ごすということです。
怒りの感情は、数十秒で感情の強さが半減すると言われます。平常心とは、怒りなどの感情を感じたときに中道を意識して、一呼吸置くことで得られるものだと思います。
【参考図書】
・「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法」
マーシャル・ローゼンバーグ著 日本経済新聞出版社 2012/6/22
・「みんなが幸せになる ホ・オポノポノ」
イハレアカラ・ヒューレン著 徳間書店 2008/9/30
0コメント