花もだんごも

 「ホーホケキョ」とウグイスが今、庭先で鳴いています。私が暮らす三河地方の平野部では、ほんの少し暖かくなり始める3月くらいから鳴き始め、そろそろ終わりの頃かと思います。別名は「春告鳥」。ちなみに「春告花」は梅を指します。「梅にウグイス」と聞けば、鄙びた春の趣を感じます。とはいえ、ウグイスはヤブの中にいることが多いので、姿を見ることはあまりありません。うぐいす色という色から想像して、メジロをウグイスと思っている人もいるかもしれません。一方、梅は匂いに気づいて、周りを見回せばだいたい発見することができます。

 もう20年以上も前のことですが、都内で友人2人と梅の話をしていたら、1人が「私は梅を見たからといって梅の匂いを連想することがない」と言いました。「東京生まれ、東京育ちだから、あまりそういうことには敏感じゃない」とのことでした。

 それとは逆の現象を、ここ数年、ニュース番組での不思議な解説で見かけて、少々気になっています。ニュース番組も今ではワイドショーのように演出されることがあり、春になると桜の名所から中継しながら気象情報ということがままあります。そのときに中継現場の人が「桜の香りが一面に立ち込めて・・・」と実況報告します。こうした中継を見ると、「桜ってそんなに香りが芳しい花だったかなぁ」と首をかしげたくなります。

 

 ところで、ウグイスのさえずりは季節モノですから、始まりと終わりがあります。終わりましたという報告があるわけではないので、それがいつ終わったのかはよくわかりません。そうしてみると、実は始まりもいつだったのかは分かりません。

 クラシック音楽を聴くときに、まれに似たいようなことを思うことがあります。ウィキペディアによると、一般にクラシック音楽といわれる曲は、1550年~1900年頃の音楽です。蓄音機の発明は1877年12月6日エジソンによるとされますから、ほとんどは生演奏で楽しまれました。オーケストラの演奏では、指揮者の合図で曲が始まりますが、出だしは音のかすかなざわめきのように感じられます。録音・再生の技術のない時代に音を奏でるのは、スイッチのオン・オフではなく、森などの自然の中の音のようにして演出されたのではないかと思うのです。

 もう少し原始的な楽器に太鼓があります。若い頃アフリカの森の中の集落に宿泊したときのことです。その日は午後から雨が降り始め、でかけることができなくなりました。しかたなく、とくにやることもないので、ぼーっとしていたら、そのうちどこからか太鼓の音がなり始めました。すると、今度は小さな子どもたちが2・3人、外の水たまりで泥水を跳ね上げながら踊り始めました。

 クラシック音楽とアフリカン・ドラムを同列にして述べるのは乱暴だとは思いますが、人が奏でる音楽もまた、もともとは、ウグイスのさえずりのように、始まるともなく始まり、終わるともなく終わるもののように感じます。

 有名な漢詩に「代悲白頭翁」があります。1列7文字26行の長い詩のもっとも有名な箇所は「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」です。「毎年同じように花は咲くけれど、それを見る人は年ごとに違う」といような意味です。

 花は季節がくればまた咲き、鳥もまた同じようにさえずります。自然界には始まりも終わりもありません。季節ごとに同じようなことが同じように起こり、繰り返されます。もともと、世界のほとんどの地域でそのような周期で生活が営まれていました。それが、古代ローマ帝国のような広範囲の領土を持つ国家が現れ、国内を統一する時間管理が行われるようになりました。古代ローマの頃には、私達が今使っているカレンダーに「January」「February」と英語表記されている2つの月がありませんでした。農業を中心に考えれば3月頃から準備して、秋の終わりには収穫が終わるのでそれでさしつかえなかったのだと思います。やがて365日の暦になり、今では私達は春夏秋冬とはあまり関係のない暮らしをしています。花よりだんごというように、花とだんごは相性のよい組み合わせですが、スーパーに並ぶだんごは、売り口上に季節が使われているように見えて寂しく感じます。

 持続可能な暮らしは、新たに獲得する新しい生活様式のような感じを受けますが、もともとは、持続可能な暮らしをしていたのではないかと思います。

 花があってこそだんごも楽しめるもの。花もだんごも持続可能にするには、自然の姿に、目を向け、耳を傾け、何かを注意深く感じ取ることが必要なのだと思います。

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